戦後80年に考える 消費税愛する官僚たち([東京新聞」)

2025年8月10日
【東京新聞】8月10日<社説>戦後80年に考える 消費税愛する官僚たち
 「次郎を頼む。本当はかわいい人間なんだよ」。1990年代半ば、元大蔵事務次官で当時、日本開発銀行総裁を務めていた吉野良彦氏(故人)にこう言われたことを覚えています。
 次郎とは当時、同省事務次官だった斎藤次郎氏。大物次官と言われ、官僚の枠を超えた辣腕(らつわん)ぶりで名をはせていましたが、批判も多かった人です。吉野氏は斎藤氏を高く評価し、大蔵省OBとして応援したかったのでしょう。
 斎藤氏は細川護熙政権当時、与党だった新生党の小沢一郎代表幹事と連携し、国民福祉税構想を打ち出しました。消費税の使途を福祉目的に限定する代わりに、税率を3%から7%に引き上げる事実上の消費税増税案です。
 この構想が細川首相から発表されたのは94年2月3日午前0時50分に始まった記者会見。しかし、税率の根拠を聞かれた細川氏が「腰だめ」と答えるなど生煮えの構想だったため、連立政権内や世論の反発で断念されました。
 日本の消費税導入は吉野氏退官の翌89年。在任中は消費税にも深く関わり、導入時の税率は5%とするよう主張していました。
 消費税は旧大蔵省と財務省=写真=が戦後一貫してこだわり続けてきた間接税です。
 「取引高税」という製造業、金融業など全39業種の取引にかかる間接税が戦後間もない48年に創設されましたが、不公平感が強く1年4カ月で廃止され、50年には米コロンビア大学のシャウプ博士率いる使節団が提出した「シャウプ勧告」に基づいて、直接税中心の日本の税制が構築されました。
◆戦後早くから研究開始
 ところが、55年の臨時税制調査会では、すでに消費税創設に言及しています。国民福祉税構想が発表された当時、主税局長だった小川是(ただし)氏(故人)も「実は戦後、かなり早い時期に欧州に職員を派遣して消費税の研究をしていた」と明かしています。
 消費税が大蔵・財務官僚に愛される理由は、安定財源として最適と考えられているからです。
 主要税目のうち、景気の動向に左右される所得税と法人税は年度によって税収額の増減が大きく当てにできませんが、国民らから広く薄く徴収する消費税は増減が少ないという特徴があります。
 戦後の大蔵官僚には旧日本海軍の経理学校出身者も多く、米軍占領下に構築された直接税中心の税制から脱却し、独自の間接税を創設することが「主権回復の証し」と考えたのかもしれません。
 財務官僚の多くは説得上手ですから、膨大なデータを駆使して、政治家やほかの省庁などに消費税の大切さを説いてきました。
 メディアも例外でありません。財務省の主税局幹部から、社会保障費の豊富な資料を示され、「財源が逼迫(ひっぱく)しています」「消費税の税率引き上げを考えねば」などと何度も説明を受けた記者は少なくないでしょう。
◆逆進性が致命的欠陥に
 ただ、消費税には致命的な欠陥があります。所得の低い層ほど負担感が増す「逆進性」と呼ばれる構造上の問題です。
 物価高騰が続き、国民が節約しながらつつましく暮らす中、消費税の逆進性による痛みは限界に達しつつあります。
 7月の参院選で、野党がそれぞれ消費税の税率引き下げや廃止を訴えたのも、国民の間で「家計滅びて消費税のみ残る」との不安の広がりをくみ取ったからにほかなりません。批判の矛先は消費税に固執する財務省にも向けられ、財務省解体デモも行われました。
 旧制高校出身の幹部が多かった旧大蔵省には強烈な個性で政治家と渡り合う官僚も多く、大きな存在感がありましたが、そうした官僚は時代とともに消えていき、中央省庁再編の流れの中、大蔵省から財務省に名称も変わり規模も縮小しました。さらに安倍晋三政権当時には政権中枢から距離を置かれ、影響力は低下しました。
 そもそも戦後の議会制民主主義下では、旧大蔵省や財務省が「国を支配した」ことなどないのではないか。大蔵省であれ財務省であれ事務方であり、税金のあり方を決めるのは国民ですから。
 選挙で消費税減税を求める民意が多数を占めれば、財務省が反故(ほご)にすることは許されません。公正な減税策に仕上げるため、代替財源の確保策を含めて国会議員に情報提供することこそ仕事です。
 戦後80年の節目に確認すべきは税金や予算を決めるのは財務省でなく、国民の代表である国会だという「財政民主主義」なのです。