声の広場から 2012年5月のお便り

◆ 増本一彦 さんから
 「消費税、ますます反対。もともと反対」の ますもとです。
  去る2月7日の消費税シンポで、「消費税は憲法違反。裁判ができないか」という会場からの質問がありました。金子先生が「できる。何度もやっているうちに、良い裁判官に当たれば、違憲判決が得られる」といった趣旨のお答えをしました。先生一流のブラックユーモラスな回答でした。
  それほどに、裁判官の大勢(たいせい)は、国民の方に顔を向けていないか、顔を向けたくても向けられないのです。現在の裁判官は、最高裁を頂点とした人事権を握った強力な官僚体制になっています。良心的な裁判官は「裁判官の良心」の発露の道をふさがれています。裁判官は国民の選挙で選ばれるわけではありませんので、国民との距離も遠いのです。そこで、少しでも風通しをよくしようと、重い刑の罪の刑事裁判に裁判員制度ができたのでした。
  考えてみますと、消費税を憲法違反として裁判の俎上に載せることが適切なのか、という問題があります。裁判の闘いには、原告となる人と弁護団と支援活動をする人と、それは大変な精力を必要とします。増税勢力を背後に持つ国家権力が被告(相手方)は、もちろん総力を挙げて応訴するでしょう。増税反対勢力の輿望を担った闘いですから、全国に支援の手を広げる活動も必要です。敗訴したときの国民のなかの反応も考えなければなりません。裁判闘争という方法は、簡単に選択できる方法ではないと考えられます。
  それよりも、みんなが闘いの、運動の主人公となって、各地で、各職場で、各団体で、国民のいるところならどこでも、「消費税をなくそう。消費税増税に反対」の声を挙げ、消費税に苦しめられている人々のなまの声を広げて、国民が良心的で、憲法感覚に富んだ裁判官として「消費税は憲法違反」の判断をたしかなものにすることが大事であろうと思います。
  私たちの消費税をめぐる主戦場は、裁判所ではなくて、国会のなかではなくて、裁判所や国会の外である国民のなかであることを確認することだと思います。
  今、大衆運動によって国民の要求を解決するという力が後退しているせいか、とかく裁判によってものごとの解決をすることに走りがちの風潮があります。しかし、裁判闘争には限界があることも認識しておく必要があります。「訴訟社会」といわれ、弁護士の数も増えていますが、それだけ紛争も多くなっているのですが、消費税のような国民全体に降りかかっている国民的課題は、国民の力の結集と連帯によって決着をつけるべきであろうと思います。
  「選挙を繰り返しても前進がむつかしいから、裁判だ」と考えたわけではないと思いますが、世の中を良くするには、政治を変える以外にないのですから、国民相互の連帯と共同を大切にして、国民のなかという主戦場で、しっかりと頑張って行きましょう。